文化庁は、日本が世界文化遺産として推薦していた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が「登録が適当」とユネスコに勧告したと発表した。時事問題より
さて、日本に新たな世界文化遺産が登録される見込みとなりましたが、ここで一つの疑問が…
これは実際の授業で発せられた言葉です。たしかに歴史の授業では『隠れキリシタン』という言葉は出てきますが、『潜伏キリシタン』は出てきませんね。
今回は、この『潜伏キリシタン』と『隠れキリシタン』の違いについて考えていきましょう。
「潜伏キリシタン」とは
『潜伏キリシタン』と『隠れキリシタン』の違いについて考える場合、まず説明しないといけないのが、『潜伏キリシタン』なのです。
1614年、『徳川家康』によって『禁教令』が出され、キリスト教信仰が禁止されました。
しかし、禁教後もカトリック信者(キリシタン)は、キリスト教の信仰を捨てませんでした。
仏教などの他宗教を隠れみのとしたのです。
このカトリック信者のことを『潜伏キリシタン』と呼ぶのです。
『潜伏キリシタン』の信仰の多くは仏教信仰を装っており、『各地』で『独自』の発展をしてゆきます。
一例)仏教の『観音菩薩』を『マリア像』に見立てた『マリア菩薩』など
しかし、残念なことに多くの土地での信仰はすぐに途絶えてしまい、信仰が残ったのは、キリスト教伝来から熱心な信仰が続いていた九州の一部(長崎県・熊本県天草地方)でした。
希少な例となったので、『世界文化遺産』に登録されることになったのでしょうね。
このように、『潜伏キリシタン』とは、『禁教後もキリスト教信仰を続けた信者』ということが出来ます。
禁教令からの解放
江戸時代、開国後に潜伏キリシタンの存在が明らかになりました。
しかし、禁教令が効力を持っていたので、潜伏キリシタンは弾圧にあいます。
この弾圧は諸外国から非難を浴びることになりました。
そこで明治政府は、1873年(明治6年)に禁教令を解く発表をしたのです。
その後、ヨーロッパからキリスト教の再宣教のために宣教師が日本に訪れます。
多くの『潜伏キリシタン』たちは、キリスト教信仰を表明し、カトリック信仰に復帰をすることになります。
「隠れキリシタン」とは
さて、潜伏キリシタンは、仏教信仰などを隠れ蓑に秘密裏にキリスト教を信仰してきました。
約200年ほど、ちゃんとした指導を受けることもなかったので、徐々にキリスト教の教義などの理解が失われていったのです。
そして、仏教や神道(しんとう:多くの神様を祀る日本の多神教)の要素が加わって独自の進化をしました。
この独自の信仰の形態を続けたいと考えた『潜伏キリシタン』は、禁教令が解かれた後もカトリック信仰に復帰せずに独自の信仰を維持ました。
この人たちを学術的には『カクレキリシタン(カタカナ表記)』としています。
まとめ
現在では、『隠れキリシタン』という言葉に、『潜伏キリシタン』と『カクレキリシタン』が含まれています。
学術的に研究する場合などには、明確に区別する必要があります。
今回の世界文化遺産登録に関しては、学術的な面が大きいので『潜伏キリシタン』という言葉を使っているわけですね。
漫画やドラマで『隠れキリシタン』が出てきたら、時代背景を考えてどちらの意味なのか考えてみるのも面白いでしょう。
ちなみに、禁教令が解かれて信仰の自由が保障されている現代の定義では、『潜伏キリシタン』は存在しないことになります。
人物イラスト提供:アイキャッチャー様